永福寺について
永福寺の由来と歴代
(「永福寺明細帳」並びに阿家系図に基づき作成。)
永福寺歴代の名字は元々「阿部」姓であり、東北地方の阿部(安倍)一族の血統を伝える。8代孝元天皇の末葉阿部(安倍)仲麿に始まり、11代の孫伊豫守安倍貞元(頼時)の子貞任は衣川城主として後冷泉天皇代、永承6(1051)年、朝廷方の源頼義、義家と奥州で戦い敗れる。
兄貞任とともに戦った弟蔵人阿部宗任は伊予国・太宰府を経て肥前松浦(宗任は松浦党の開祖との伝)へ配流された。
宗任の子実任は筑前上座郡佐田村(現甘木市)へ居住する。佐田村には安陪姓の方が多く、立仙墓(りうせんぼ・安倍貞任の子の墓という)がある。佐田という地名は貞任のサダに因んだもの。
子孫の阿部式部(佐田十郎左衛門)は下弓削(現東合川町)へ転居した。貞任の名前(サダトウ)が転じた佐田姓も阿部一族で下弓削の代々の庄屋であった。
宝暦年間に農地の潅漑・保全に尽くした佐田六郎次成種を記念する石碑が天満宮にあったが現在は下弓削納骨堂敷地に移転。石碑はアカボンサン(赤坊主)の呼称で呼ばれ、毎年9月1日は八朔祭として地元の方が顕彰。
永福寺は下弓削が開基の場所として、現在も毎年12月28日(宗祖の月命日)に下弓削宝満宮へ鏡餅を奉納している。
①開基浄近(浄欣)
阿部式部(佐田十郎佐衛門)は法名を浄近と名乗り念仏を喜び、天文10(1541)年、大坂本願寺で十代證如上人に謁見し浄土の法門を聞き大いに浄土真宗を悟り剃髪。證如より本尊(阿弥陀如来絵像)を賜る。天文23(1554)年8月13日證如遷化のおり上山の念切なるが、老体につき長男(恵教)を上山させた。
證如の後継十一代顕如上人は恵教と引見し法名「浄清」を授与、併せて一貫代の阿弥陀如来絵像も下付。
弘治元(1555)年、下弓削の阿部宅の西南地4面5反を拓き仏堂を建立した。念仏の道場永福寺の草創。
のちに久留米藩主田中吉政寄進にて府中=御井町の現在地に移転。下弓削にはかつて永福寺旧跡地を示す石碑があった。
天正15(1587)年、十二代教如上人(東本願寺、後の大谷派を分立)は九州下向(布教)に際し高良山の麓、吉見ケ岳(豊臣秀吉軍の九州平定の陣営であった)に滞在。そのおりに浄近・恵教親子は門信徒を引率して陣営(防御用の二重の掘)を造る。「浄近掘」遺構は現存し当時を偲ばれる。
賞典として「御文」(八代蓮如上人の手紙を和綴製本したもの)と寺号・山号を賜る(永福寺の開基)。
教如上人の諱「光壽」を山号(三世浄永の弟祐玄開基の寺町誓行寺も光壽山)。教如の院号「信浄院」により「浄欣」、恵教は「浄清」と改める。
また金入五條袈裟も拝受し、のちに歴代が報恩講大逮夜・元旦に着用した。さらに本堂荘厳も一切御免となる。
豊臣秀吉も褒美として箱崎旅館(現福岡市)にて陣鐘を寄進、寺什物として伝わる。現在本堂にて喚鐘として使用中。
②二世浄清(恵教、号は玄海)
文禄元(1592)年、顕如上人遷化につき浄清は門徒を連れて上山。当時の新門首であった教如上人と対面し九州下向の際の忠勤として教如によって改版された「正信偈・御和讚・御文」を拝領した。御文は門徒には三部、寺宝として二部。
大永5(1525)年11月12日生、天正19(1591)年2月7日に寂。享年64歳。(注 上山と没年が不整合)
③三世浄永(浄慧または浄栄とも伝う)
慶長6(1601)年、筑後守田中吉政(滋賀出身の真宗門徒の戦国大名、墓は柳川・大谷派真勝寺)より下弓削は筑後川が度々、氾濫する水害地との理由で府中(現在地、御井町の旧名)に寺領をもらう。
併せて堂宇・本尊阿弥陀如来木仏(伝行基菩薩作)ほか山門・庫裡一切の寄進があった。外には隈山など出所も付属せらる。隈山の一部(現在、久留米大学校地)に代々の墓地があったが昭和42年本堂建立につき売却、歴代の一部の墓石は現境内地に移転した。
現在の久留米競輪場付近は明治40年に工兵15大隊の演習場にと十九世現英が寄付したもの。
浄永は寺禄のため浪人その他資格の有る者を檀徒にしたいと願い、許されて専ら寺務、門徒の教導に従事した。寛永15(1638)年6月13日に寂。
浄永の弟祐玄は同じく田中吉政より寺町に寺領をもらい分家し誓行寺を建立し開基となる。
④四世慶念
寛永4(1627)年久留米藩主有馬豊氏(田中一族の後に転封)が回状にて領内の一向宗をして西本願寺へ転派強制を策す(ただし「久留米市史」によれば寛永14年頃)。
慶念は憤慨し北野町明善寺一祐宛に遺書「国主の命なりといえども転派の儀付随難致出来得べくんば死をもってこれに代ん、宜しくこの由本山へ急ぎ注進せよ」と託し、仏祖の御前に暇乞いの勤行。そして高机前に端座し回文を口にくわえて切腹、自刃した。寛永4年4月19日(別の資料では寛永7年7月18日、久留米市史では寛永14年)のこと。
慶念の死後、若干22歳の坊守フサ(房)が寺を守ったので尼将軍と呼ばれた(慶念の叔父祐玄=寺町誓行寺開基の娘)。
長男祐春3歳、次男祐尊1歳だった。フサは明細帳では自刃の悲痛により3年後死すとある。二十世闡教は報恩講中に慶念自刃の由来をご門徒に伝えていた。
⑤五世浄専
慶念の自刃につき、伯父浄専が5世となる。寛永11(1634)年初冬4日、十三代宣如上人から祖先の功労を嘉し教如上人の御影を拝受する。
⑥六世祐春
慶念の長男。父慶念の死の嘆願によって寛永20(1643)年11月28日、祖師聖人真影を差免さる(宣如下付)。
⑦七世慈照院祐尊
慶念の次男。この頃より(慶安年代1648年~)門徒葬儀執行の記録帳である法名帳と永代法名帳を現在まで伝持。
七高僧の絵像が明暦3(1657)年、十四代啄如上人より下付さる。寛文8(1668)年11月16日母妙原が寂。祐尊は寛文9(1669)6月12日に寂。
この当時の本堂は「寛文10(1670)年久留米藩寺院開基」によれば三間六間茅萱。
⑧八世祐悦
玄関に延宝4(1676)年7月施主山北村吉(若)瀬亀厨藤原宜舎の刻銘の石灯籠。天和2(1682)年10月20日、十五代常如上人代に寺格「飛檐」御免となる。
祐悦は貞亨3(1686)年12月9日に寂。
⑨九世光樹院貞卯
貞卯の娘ちよ釋妙祐、元禄7(1694)年2月22日に寂。
客殿庭に元禄12(1699)年刻銘の石灯籠有り。元禄時代に御絵伝が十六代一如上人より下付さる。貞卯は寛保3(1743)年1月24日に寂。享年82歳。
⑩十世椿山律師
享保元(1716)年3月上旬に律師(僧侶のランクの一つ)を取得。それを示す一対の大型石灯籠に刻印有り。この灯籠には施主として「石原氏」と刻まれている。
長男は慈峯、次男は香光院寳月普明。
⑪十一世慈峯
椿山の長男。享保13(1728)年に境内を一揆側砦に提供した。元文3(1738)年7月10日に慈峯の母(椿山の坊守)真乗院妙受が寂。宝暦5(1755)年の宝暦一揆にも農民側に境内地を提供し隠居(閉門とも)の処分を受ける。
⑫十二世普明(香光院宝月)
椿山の次男で元文2(1737)年日田長福寺武内通元の養子として入寺し、16歳で日田長福寺の11代住職になった。しかし兄慈峯隠居につき帰寺し永福寺の12世継承。 本山嗣講(現在の大谷大学の教授級)で漢詩が有名。普明の子、易行院法海は八代市の大坊光徳寺住職になり、同じく本山嗣講。
⑬十三世順恵
明治時代の大分市戸次妙正寺の小栗栖香頂(蓮舶)、憲一(布岳、佐伯善教寺へ入寺し小栗憲一とも名乗る)の曾祖父にあたるという。間柄は不明であるが両師による宝月や十八世大解の遺徳を称える書画が存在する。
⑭十四世唯乗院法寧
天保5(1834)年4月、寺格の余間に昇進。宣如上人絵像を拝受。慶念の自刃し宗派の為に尽くしたことを嘆願する。天保8(1837)年6月14日には寺族の光正院釋尼智眼が寂。
⑮十五世自然院大解
天保9(1838)年4月に内陣に昇格。更に慶念の功績を嘆願し筑後国内に例のない緞子咒字袈裟御免になる。天保11(1840)年12月25日に寺族の清光院釋尼妙貞が寂。天保12(1841)年刻銘の大型手洗い鉢(施主は門徒の枝光村飯田ほか)有る。
⑯十六世皆到院大現
嘉永2(1849)年4月22日に寺族の晃教院釋尼聞信が寂。
⑰十七世実相院大寧
住職になると直ちに「筑後において当今、東派のみ存在するは慶念のおかげ」と嘆願し緞子咒字袈裟御免。明細帳に「伯東寺・圓行寺の転派騒動に大いに尽くした、有馬候より取立と寺格の待遇」とある。
また「平素より勤王の志しが厚く武術に達し同志と往来して国事を談じた」。藩内佐幕派に捕まり鉄窓に呻吟して身体を害し出獄後に阿部姓を阿(ホトリ)に改める。
明治10(1877)年10月27日に寂。享年36歳。坊守は信教院釋尼妙寧(大正12(1923)年9月1日寂、享年78歳。
これより誓行寺も阿姓を名乗ることに。
明治維新後には久留米藩応変隊の出張所となり旧庫裡玄関木柱には隊員が付けたという刀傷が残っていた。
この頃、神仏分離令(廃仏毀釈)により高良山より南北朝時代以降のものと思われる多数の石仏や大日如来座像(木仏)等を預かり、そのまま寺宝とする(高良山は天台宗で座主が代々支配しており奥の院には戒壇があった)。
⑱十八世哲了院大解
十七世実相院大寧の長男で本山の衣体で一代素絹を得る。本山再建では材木・玄米を提供。寺内で法律勉強会を主催し、のちに弁護士が輩出した。自由民権運動に加わり山口県で明治22(1889)年、享年25歳にて客死。
姉の春雄(はるを)法春院釋尼雄勲、大正9(1920)年8月16日に寂。
⑲十九世現英
十七世実相院大寧の次男。兄大解の早逝去により帰寺し住職継承。坊守光子(てるこ留光尼、小栗栖香頂の孫)が大分妙正寺より入嫁。
坊守光子の縁で小栗栖香頂の「八洲日暦」直筆本が伝わるが保全のため、英紹代に大分妙正寺を通じて大谷大学に寄贈した。
昭和2(1927)年11月17日に長男法照院釋彰英が享年20歳で寂(明治42年3月20日生)。
日露戦争以降、戦没者遺骨安置と久留米師団の戦死者(戦病死を含む)の追弔会(葬儀)を一手に引き受けた。昭和24(1949)年6月4日享年満80歳で寂。戦没者の「忠霊塔」を現競輪場に開設した。
現在も毎年久留米市社会福祉協議会と仏教会がこの地で「慰霊祭」を行う。
旧師団の病院は第二次大戦後国立病院になり、病棟が火災をおこし入院患者多数焼死にて毎年「慰霊祭」を永福寺が勤修していたが久留米大学医療センターになり「慰霊塔」は処分された。
⑳二十世闡教
現英の次男だが兄彰英、大谷学生時代逝去により住職継承。戦後すぐにボーイスカウト久留米第1団や幼児教育施設=御井幼児園(現永福寺幼稚園)を開設したり吹奏楽連盟を立ち上げた。
昭和40(1965)年11月20日に母留光尼、享年満80歳で寂。昭和42(1967)年に本堂・庫裡を再建した。昭和57(1982)年1月10日命終、享年満63歳。
永福寺略年表
国際暦(和暦) | 世代・草創後 | 事項 |
---|---|---|
1051年(永承6) | 奥州の安倍頼時(貞元)、朝廷側の源頼義、義家と戦う(前九年の役)。(史) | |
1057年(天喜5) | 安倍貞任(頼時の長男)が朝廷派遣軍の源頼義を破る。(史) | |
1062年(康平5) | 源頼義、出羽の豪族清原武則の援軍にて貞任の弟 宗任を小松柵にて破る。(史) 貞任、頼義に衣川にて敗れ厨川に拠る。後に貞任 頼義に殺害され宗任は捕虜となる。(史) |
|
1063年(康平6) | 安倍貞任らの首が京都西獄門にさらされる。(史) | |
1064年(康平7) | 安倍宗任、伊予国に流される。(史) | |
1067年(治暦3) | 安倍宗任、伊予国より太宰府に移される。(史) | |
11世紀後半 | 宗任の子、安倍実任、旧筑前上座郡佐田村(現甘木市)に居住する。 | |
16世紀前半 | 実任の子孫、阿部式部(佐田十郎左衛門)下弓削(現久留米市東合川)へ転居する。念仏に帰依する。 | |
1525年(大永5) | ①浄欣【詳細】 | 阿部式部の子、二世浄清生まれる。号は玄海。 |
1541年(天文10) | 草創 | 阿部式部、大坂本願寺に上山し證如上人より浄土門を聞き、真宗を悟り剃髪し浄近と改め阿弥陀如来絵像本尊を授与される。阿部家の念仏道場としての創建。 |
1554年(天文23) | 證如遷化につき、浄近長男が上山し顯如上人より法名恵教を賜り、併せて一貫代の阿弥陀如来本尊絵像も授与さる。 | |
1555年(弘治元) | 寺檀開基 | 浄近、下弓削の自宅四面五反を拓き仏堂を建立する。 |
1587年(天正15) | 本願寺 末寺化 | 教如上人、豊臣秀吉の九州平定に伴い下向し高良山吉見岳の秀吉陣営に滞在。浄近恵教親子で、門徒を率いて軍営掘を作る。(浄近掘) 褒賞として寺号・山号を賜る。更に法名を浄欣・浄清と改められる。 教如帰途の筑前箱崎(博多)まで奉送し蓮如 名号・金蘭五條袈裟・正信偈和讚本が授与され本堂荘厳一切も許される。 秀吉、吉見岳の陣鐘を寄進し寺什物となる。 |
1591年(天正19) | 草創50年 | |
1592年(文禄元) | ②浄清【詳細】 | 顯如没。門徒と上山し新門教如と対面。改版の正信偈・和讚・御文を授与される。 |
1601年(慶長6) | ③浄永【詳細】 | 筑後守田中吉政より府中(御井町の現在地)に寺領をもらい移転。 |
1627年(寛永4) | ④慶念【詳細】 | 久留米藩主有馬豊氏の西本願寺転派強制に抗議して慶念、本堂にて切腹自刃。(市史によれば寛永14年) |
⑤浄専【詳細】 | 慶念の伯父浄専が住職を継承。 | |
1630年(寛永7) | 慶念自刃の後、尼将軍と呼ばれた坊守フサ没。 | |
1634年(寛永11) | 宣如上人より祖先の功労を嘉し教如御影が授与される。 | |
1641年(寛永18) | 草創100年 | |
1643年(寛永20) | ⑥祐春【詳細】 | 慶念の長男で住職を継承した祐春が父の死を嘆願し祖師聖人御影が授与される。 |
1648年(慶安元) | ⑦祐尊【詳細】 | 祐春の弟、祐尊が住職継承。 葬儀執行記録である過去帳がこの頃より記帳 保存し今に至る。 |
1657年(明暦3) | 琢如上人より七高僧御影が授与される。 | |
1669年(寛文9) | ⑧祐悦【詳細】 | 祐尊、没。祐悦が住職継承。 本堂は三間六間茅萱と届け(久留米藩寺社開基) |
1682年(天和2) | 常如上人代に寺格「飛檐」となる。 | |
1686年(貞亨8) | ⑨貞卯【詳細】 | 祐悦、没。貞卯が住職を継承する。 |
1691年(元禄4) | 草創150年 | |
1700年頃(元禄年間) | 一如上人より御絵伝四幅が授与される。 | |
1716年(享保元) | ⑩椿山【詳細】 | 椿山、律師(僧侶のランク)を取得する。 |
1728年(享保13) | 亨保一揆にて農民蜂起し境内に終結、久留米藩と対峙する(市)(町) | |
1737年(元文2) | 椿山の次男、普明が日田長福寺へ入寺(香光院宝月)。 | |
1738年(元文3) | ⑪慈峯【詳細】 | 椿山の坊守(慈峯の母)、没。 |
1741年(寛保元) | 草創200年 | |
1743年(寛保3) | 九世貞卯、没。 | |
1754年(宝暦4) | 宝暦一揆が起こり、関与の永福寺閉門の処分。(市)(町) | |
1755年(宝暦5) | 慈峯、一揆に関連して隠居する。 | |
18世紀中頃 | ⑫普明【詳細】 | 兄隠居処分にて弟普明、日田長福寺より帰寺し住職継承。後に本山嗣講(大学教授に相当)となる。 普明の子易行院法海、八代光徳寺に入寺し本山嗣講となる。 |
1780年(安永9) | 乗如より蓮如絵像が授与される。 | |
18世紀後半(江戸後期) | ⑬順恵【詳細】 | |
1791年(寛政3) | 草創250年 | |
1805年(文化2) | 本堂・庫裡焼失。(町) | |
1810年(文化7) | 再建の本堂は七間四面。(町) | |
19世紀前半 | ⑭法寧【詳細】 | |
1834年(天保5) | 寺格「余間」に昇格。宣如上人御影が授与される。 | |
⑮大解【詳細】 | ||
1838年(天保9) | 寺格「内陣」に昇格する。 達如より九字十字名号が授与される。 |
|
⑯大現【詳細】 | ||
1841年(天保12) | 草創300年 | |
19世紀後半(幕末) | ⑰大寧【詳細】 | 久留米藩佐幕派に捕縛され、出獄後に阿部姓を阿(ほとり)と改める。 |
1868年(明治維新) | 神仏分離令(廃仏毀釈)にて高良山中の石仏等預かり、今に至る。 | |
1869年(明治2) | 久留米藩応変隊の出張所となる。(町) | |
1873年(明治6) | 19世現英坊守(光子)の祖父小栗栖香頂(大分妙正寺)、中国へ開教に行く。 | |
1877年(明治10) | 大寧、没。 | |
⑱大解【詳細】 | 蛤御門の変で焼失した本山再建に木材・米を献納。 | |
1889年(明治22) | 大解、自由民権運動に参加して、山口県で二十五歳で客死。 | |
⑲現英【詳細】 | ||
1891年(明治24) | 草創350年 | |
1904年(明治37) | 現英、日露戦争時に軍隊布教する。境内に戦没者の収骨・位牌堂も作る。 後に歩兵第四八連隊の「英霊安置所」となる。 |
|
1911年(明治44) | 宗祖六五○回忌を本山が厳修。記念事業として本堂を十一間に増築、併せて客殿(御殿と呼ぶ)も新築。 | |
1917年(大正6) | 永福寺の宗祖六五○回御遠忌法要勤まる。 | |
1937年(昭和12) | 日中戦争始まる。(史) | |
1939年(昭和14) | 現英坊守の留光尼、東本願寺裏方(門首の坊守)名代として中国(北京、上海など)へ「軍隊慰門」。戦争中、計四回派遣され、併せて五台山 (中国仏教のメッカ)へ参拝。 | |
1941年(昭和16) | 草創400年 | |
1947年(昭和22) | 現英の次男闡教、永福寺幼稚園の前身、御井幼児園を創立し本堂で保育事業を開始する。 | |
1949年(昭和24) | ⑳闡教【詳細】 | 現英と闡教長男祐教、没。 |
1965年(昭和40) | 現英坊守の留光尼、没。 | |
1968年(昭和43) | 宗祖生誕八○○年を記念して本堂を立て替える。 | |
1982年(昭和57) | 英紹 | 闡教、没。 |
1991年(平成3) | 草創450年 | |
2012年(平成24) | 青瑛 |